近況報告

気持ちは「今年は5月病ならなくて済んだ~」くらいのところにいますが、なに、もう8月ですと?どういうことでしょう。

暑いのが苦手、+8月はどうにも戦争のことばかりを考えてしまいます。小中高での平和学習、修学旅行で行ったナガサキ、鹿児島。今では「子どもに見せるなんて!」と炎上しそうな悲惨な写真や映像、語り部のお話は、今でも夢に出るくらい強烈に残っています。「はだしのゲン」が学校に置かれなくなったとかならないとかの話題もちょっと前にありましたが、「寝た子を起こすな」じゃないんですよ…。知らないことが一番恐ろしいと、思わずにはいられません。

 

今朝は三上智恵監督作品「標的の島風かたか」「戦場ぬ止み」を観ながら、講演資料を整えていました。で、今は箸休め的にブログを書いています。

イントロダクション|映画『標的の島 風(かじ)かたか』公式サイト

作品情報|映画『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』公式サイト

 

7月、8月に各1回ずつあった「県のLGBT施策を考える研究会」が終わりました。

講演依頼の繁忙期7月も、なんとか終わりました。

 

なんというか、どの人権問題、どのデモ、どの正義にも、共通点があるというか、「根っこは同じ」と感じて、一緒につらくなりがちなのが私です。

 

三上智恵監督作品は沖縄の「辺野古基地移設問題」を追うドキュメンタリーが多い。国は、かつて戦場になったオキナワに、とんでもなく整ったデカい基地を作ろうとしている。デカい基地があれば、自然破壊は言うまでもなく、有事の際はそりゃあもう恰好の標的となるわけです。陸続きでもない沖縄で、逃げ場なんてない。大和(本土)に切り捨てられたらおしまい。かつて実際にそうされたのに、また同じ風に扱われるのかと思うと、じっとしていられないと集まったデモ隊(民衆)と、国(自衛隊、警察、機動隊、政治家…)の姿が描かれています。

 

私も、LGBTを広く知ってもらいたい、助けになってほしい、差別されたくない、という思いがあって、身を削って啓発活動をしています。

そりゃオキナワの問題と比べたら私ひとりの活動はスケールが小さすぎますが、それでも「教員」や「大人」や「お役所」と、じっと向かい合うこともあるのです。

 

今回の研究会は、「LGBT施策」とゆるく言ってみたものの、大テーマは今はやりの「パートナーシップ制度」導入を目指すための当事者・有識者会議です。

後ろ向きで大変申し訳ないのですが、私の考えだと、「大人には大人の、私たちには私たちの、正義がある。そしてそれらはどちらとも、折れることができない」のです。

 

話がまた反れますが、さいきん「やさしい猫」という、外国人の人権や入管のあり方について描かれた5話物のドラマを見たのです。おそらく以前「恋せぬふたり」をやってた枠です。

やさしい猫 - NHK

恋せぬふたり - NHK

「やさしい猫」では、スリランカ人の男性がオーバーステイ(在留カードの期限切れ)で逮捕・拘留されてしまうのですが、実は逮捕されたのはオーバーステイの申告に行く道すがら。入管の最寄り駅だったのです。この時捕まらずにオーバーステイの申告に行けたら、拘留されることもなかったのです。

入管の人権侵害や国の姿勢は、実際のあり方も、ドラマの中の描かれ方も酷いもんでした。でも、入管職員は彼らの正義に従って動いている。入管が甘々だったら日本の治安は守れない、それもわかる。でもあんまりにも「濡れぬ先の傘すぎる」というか「転ばぬ先の杖すぎる」というか…「濡れたくないので一生屋内」「転びたくないのでハナから歩きません」という頑固さのように思えてしまいます。でもまぁ、屋内にいれば濡れないし、歩かないなら転ばないのはそうでしょうね…。でも…そんなに0-100思考で、人が守れるかってんです。人は多様。だから、その対応だって白黒ハッキリとできるわけがないのに。と、悲しくなってしまいます。

 

私もかつて一瞬だけ(2年弱)お役所仕事をしたことがあります。そこで「お役所の正義」と「多様な人々」との最前線(お役所側)に立っていました。たくさん揺らぎました。助けてあげたい、どうにかならないか、もっとよくできないか、最前線でたくさんの声を聴いて、たくさんのアイデアをボス(正規職員)に起案して、自分ができることが何かを一生懸命考えました。でも出来ることって本当にわずかで、悔しくて悲しくて、飲み会で悪酔いして手が付けられないほど泣いてしまったこともあります。

でも、できない。ある程度は「自分はお役所の人間だから」と言い聞かせないと、自分の身を守ることができない、そんな職場でした。「みんなにフレンドリーなお役所人」にはなれても、結局はどこかで割り切って、冷ややかなお話もしなくてはいけない。頂いた声を「ご意見ファイル」にそっと綴じて、保管期間満了まで放っておかなければならない。実質無視です。いろんなことがつらくてつらくて、辞めました。

 

いま、講演会や研究会の当事者メンバーとして活動する私は、「訴える民」の側です。辺野古で座り込みをするデモ隊の側です。同性婚訴訟で国を相手取って戦う側です。でも、正直私たちは、2つの正義の境界線で睨み合ってはいるけれど、この戦いの決着をつける権利を有してはいないと思ってしまうのです。

 

研究会メンバーの当事者・当事者の味方をしてくれた有識者、対して施策を決定する側のお役所メンバー。認識は人それぞれだと思うけれど、私は「あの場にいたお役所メンバーに熱で訴えかけても、つらいだけだろうな」という、諦観というか、冷ややかさというか、そういう感情を持ってしまいました。

だから言いたいことは「熱を込めず」に、「事実」と「意見」と「要求」を分けて話し、「実現可能性」の高い起案だけをしたつもりです。

 

もちろん、熱のこもった方を否定するのではありません。だって無理だもん、悔しいし悲しいしムカつくし、泣きそうになる。同じ気持ちです。ずっとずっと同じことを言い続けているのに、実質なーんも変わらないの、そりゃもう、声がでかくならないわけがない。「聞けっつってんだろオイ???」ってなりますよね。

 

 

…という、2500字超のうじうじイジイジはそろそろ切り替えて。

 

 

件の映画の中の「辺野古のデモをしている側」には、三線を弾いたり歌を歌ったり、キャンドルを灯したりする人もいます。もしかしたら中にはお役所の人と飲みに行ったりする人もいるのかもしれませんね。お役所の人だって一緒に暮らす人間ですからね。

 

私がこれから舵を切っていきたいのは、それに似た方向です。

啓発活動や、お役所とにらめっこ(!)ももちろん続けていきますが、「妄想屋台活動」でいろんなイベントをやる。人と人が繋がりあう、同じ歌を歌ったり、同じ時間を過ごしたり…ある種の逃避のようにも思えるけれど、それは違う。思い通りにいかないことからちょっと距離を置いて、思い通りにいく空間をちょっとの間楽しむ、そして元気になる…みたいな場を整備していきていなと、そっち方向をやってみたいのです。

 

またちょっと話はそれるけれど、私は「理解者だけが手元に残ればいい」とか「わかってくれない人は無視していい」とか「人はみなサタンだ」とか、安易な基準を設けたくはありません。そういう身の守り方もきっと正解で、きっと安全なのだと思うけれど、私は「ほら言わんこっちゃない!」と言われながらも、あきらめたくない。

安全地帯にずっといると、動き出すのが怖くなる。

ちょっと休んで、また出ていく。傷付いて帰ってきても、メソメソできる場がある。そっちの方が好きなのです。

 

持続的でもなんでもない、パッタリとエネルギーが切れてしまうかもしれないやり方ですが、充電場所と充電のタイミングさえわかっておけば、たぶん大丈夫。知らんけど。

 

でも今の、たった27年ぽっちの脳みそで考えられるライフスタイルとしては、もうこれで「はしる」しかありません。これから生きていくうちに、いいものは付加して、わるいものは削除していけばよい。

県がこれから導入する予定のパートナーシップ制度でも、同じことをお役所サイドが言ってましたよ。「とりあえずこの形で走るけど、走っていく中で改良したり変化させたりして、よりたくさんの人に対応できる形にしていきたい」って。

だからね、もうちょっと頑張ってみますね。たぶん、生きてりゃいいこともある。