「アクティビスト」を名乗ってた時が恥ずかしいわ
ここ最近考えていることなんだけど、講演とかLGBT関連の寄稿(と言うのかわからんけど新聞の企画とかで記事書くやつ)とかの活動は、もうぼちぼち畳み始めたがいいのかな~…について。
なんか、わかんない!「要望があればしまっせ」のスタンスは変わらないんだけど、”性的マイノリティの当事者として”、”LGBTの当事者として”と求められるような依頼に、ちょっと乗り気でなくなってきている。
講演のスタイルも、最初(2015~2017?18?くらいまで)は、「LGBTってこんな人で、病気とかじゃなくて、」とかって話し方をしていたけど、今は「十人十色やで、例えば性も色々で、SOGIESCってものがあって、」という風に、伝え方も内容も変わってきた。
それこそ”LGBTの”勉強がしたい人には、物足りないというか、そうじゃない感というか、ガッカリな感じになってしまうと思う。
でも、もう私としては、「”LGBT”の”権利を守る”ために”自分を曝け出して””強く””活動”している…、…、…!」みたいな人にはなれないんだわ。なんでかはわからんけど。
「そんなんじゃあかん!」「まっだまだ苦しんでる当事者がいるのに!」と、思わないこともないが、でも、それでもやっぱり、”LGBTの当事者であること”を求められるのは、居心地が悪くなってきた。
だって誰に受け入れてもらわなくたって、もう生きてるんだもんな。勝手に死んだら怒られるし、安死も非合法だし、生きるしかない。受け入れてくれる人とだけ関わったらいいし、嫌われた人のことをいっくら考えたって好かれはしないし、しゃあない。
マイノリティ性に縛られていたくない。そんなもん同定しなくたっていいし、他者に説明できる必要は無いし…。
…とかとか、ウジウジと考えてしまうわけです。
そうなると、講演の内容だってどんどんボケてくる。私の頭の中から”マイノリティ/マジョリティ”とか”普通/普通じゃない”が薄れてしまっているから、「なんでもええやん」やし「やればええやん」やし、それで完結してしまっている…。
イヤ、わかってるんよ。ある種のこの境地(?知らんけど)に達するまでには、時間がかかるしいっぱい考えたし、病むし死にそうになる。そうなったからこそ今私はこんな考え方が出来るわけなので(多分)、やっぱり、スピーカーとして私がいることにも、こんな話し方でも、価値はあるんやろうなと。
わからんけどな…。そこんところ、まだまだ考えつつ、依頼の受け方とかレジュメの更新とかしながら、だましだまし、やれるところまでやっていく方向で行こうかな…(結局やるんかい)