「自分が助かりたい」が主軸の人助けって、人のためじゃなくないか。

私の中学校時代の夢はスクールカウンセラーでした(あと獣医…)。

小学生から保健室登校&早退多め、中学生になっても相変わらずで、特にカウンセリングの日に命を掛けんばかりの勢いでした。

 

「しんどい気持ちが分かるから、しんどい人に寄り添って助けることができる」というのが主張の根っこで、カウンセラーやらアニマルセラピストやらいろんなものに興味があった。

が、よくよく考えたら(自分自身がグラッグラなのに人助けとかできるわけないやん。自立してからにしよ)と思い至り、心理系の勉強はたしなむ程度としました。今にして思うと懸命な判断だった。

 

機能不全家族育ち(アダルトチルドレン)でもあるので、他者からの目や周囲の変化に敏感で、自己肯定感も低い。「評価されたい」「認められたい」の気持ちが強いし、そのために自分の身を削ることも厭わない。痛覚が鈍いのだ。

 

そうなると、「他者を助ける(そのために心身を削る)→人助けが評価される→このことで満足感を得る→自己肯定感があがる→また人を助けたくなる→…」のループが生まれてしまう。

その結果残るのが「助かる他者」「評価」「自己肯定感」「満足感」ここまではいい、あとは「削れた心身」。これに至っては大問題。

志はいいことだとしても、ループが「他者を巻き込んだ自己肯定感獲得行動」になってしまうと、もはや自傷行為だ。結局疲弊する。精神薬飲みながらカウンセリング、なんてちぐはぐなことになりかねない。

「それでもいい」と思うこともあるけど、良いわけあるか。自傷するな。他人を使うな。

 

今でさえ薬飲みながら自身のSOGIESCなんて超プライベート情報を語り歩いて回って活動している。十分ちぐはぐだ。「誰かを救いたい」と思いながら活動をするのはまた来世ってことにして、「誰か助かるかもしれんならいいか」という程度で頑張っています。

 

ちょっと前までは、マイノリティはもちろん、いじめ加害者とか犯罪加害者などに対しても(育った環境はどうだったのかな、いろいろしんどいことがあったんだろうな、つらかったろうな)とか思いを馳せては心を痛め、民生委員になるか?いのちの電話支援員になるか?募金?ほかになにかできることは?なんて思っていたけれど、そういうことに割く力は持ち合わせていない、身の丈に合ってない、と自覚を持つことができた。

勉強を続けていくことと、考え続けることと、金銭的余裕があれば物品を買ったり寄付をしたり、そういうことくらいが「身の丈」に合っているはずだ。

 

誰がどんな風に生きていて、どんな悩みを持っているかはわからない。多様だ。人それぞれだ。そのすべてを網羅して対処しておく、という意味の「みんなが居心地のいい社会」なんて、私には作れんよ。前は本気で作ろうとしてたけど…

だから、「知らんことも多いけど、一緒に考えようと努力する。これは保証するぜ!」というスタンスで、できることからやっていく。

やみくもに自分を削っていくのは、いくらいいことをしていたとしても自傷行為だ。

自分にさほど価値があるとは思わんが、それも認知の歪みを矯正すれば事実とは異なるかもしれない。だから身を削ってまで価値を得ようとする必要は無い。自分大事に、できるところから。です。