「恋せぬふたり」2話、主人公の実家が怖すぎて泣きながら激怒しちゃったもんな。

「おまえは橋の下で拾ったんだよ」と言われた経験は忘れられない。

私は両親の実子ではなく、望まれて生まれた子供でもなく、しかも捨てられていて、それをお情けで拾っていただいて、育てていただいている。想像しただけで死にたかった。齢まだ一桁で、死にたかった。こうかはバツグンだ。

 

マジで、いくらあるあるジョークだったとしても、サムい。おもんないからやめてくれ。もし今目の前でこんなジョークが飛び出したら、私は誰の親であろうとその口を縫付ける。そのくらい嫌いだ。

あと「ウチの子は何もできなくて」とか「情けない子で」とか言う親も。それ「謙遜」じゃないから。「自分下げ」はまぁいいけど、子どもは子どもであって自分じゃないし、「身内下げ」だとしてもそれは謙遜ではない。

「何もできない子に育てた自分」と言いたいならそう言ってよ。子どもを巻き込むなー!

 

昨日「恋せぬふたり」というドラマの全8回放送第2話を見て、「家族」について色々考えて、文字にしたくなった。

第2話では、「血の繋がった家族」と「自分で作った家族」の対比、「フツ―」の捉え方が痛いくらいに描かれていた。見ていてしんどかった…。

私は血族と距離を置き始めてもう5年以上経っていて、しかも題材の「アセクシュアル・アロマンティック」は当事者サイドでもあるので、今回「普通・一般的」として描かれていたいろんなことが痛く刺さった。

 

血族はあくまで他人。「わかるはずだ」「同じはずだ」という根拠のない思い込みや信頼をもって、「言わなくてもわかっている。当然である」としたり、自分のことや自分が信じるもののことを理解してもらおうなど、無理がある。と、大きくなるにつれて確信していった。

そして、「話し合えばわかってもらえる、わかりあえる」というのも、どうやら無理がありそうだと思った。小さいころから何度も何度も、そう思わせる出来事があった。

 

相手の信じるもの、信じたいものを壊さずに、自分が自分として生きるために、私は血族と距離を置くことにした。ちょっと切ねぇけどな。

そして、自分の家族は自分で選んでいくと決めた。共感できる人や、話し合える人や、居心地がいい人、一緒にご飯を食べたい人。家族(血族)より「家族だな」と思える。

 

血族は大事にしたいけど、その前に自分は自分。自分の事を100%理解してもらわなくても血族なのは変わらないし、逆に血族じゃなくたって安心できる、理解してくれる人はいるのだ。

「家族」という言葉の意味とか、その言葉に求めるものとか、実際のところはとか、ひとつひとつを分解して、理解を深めていくのは面白い。

 

 

それから話は変わるけど、「恋せぬふたり」の作中にも、冒頭の「橋の下で」発言時にもあったのだけれど、世の中の大人って、セックスについては語らない人が多いよね。「子供作れとは言うのにセックスは言っちゃいけないの?」旨の主人公のセリフがあったけど、頷きすぎて首痛めそうだったわ。

 

性教育をマトモに受けていない人がほとんどだから、「教えられない」というのが実際のところかもしれないけどさ。作り方も言えないくせに作れ作れって言うの、ウケるよね。

「男の人が持っている卵と女の人が持っている卵がくっつくと赤ちゃんの卵になるんだよ。」「赤ちゃんの卵はお母さんのおなかの中で大きくなって赤ちゃんになるよ。」「男の人の卵は、空気に触れて乾くと死んでしまうから、陰茎でお母さんの体の中に届けるんだよ。」これでいいじゃんね。誰にでもわかるじゃないか。

 

自分がどこから来たのか、どうやって出来たのか、どんな思いで出来たのか、子どもはそれが知りたいのだ。いや全部の子どもがどうなのかはわからんが。

それをマトモに説明することもしないで、「愛の結晶だ」とか「橋の下で拾った」とか、アホか。その言葉が愛するわが子への呪いになるなんて哀れだ。

当時は愛の結晶だったものが鎹となったり、愛が壊れれば子どもの生存意義はどうなる?アホな回避は辞めて、「避妊しませんでした」「当時子どもが欲しかった」と言いなさいよ。世の親。

ちなみに私は「次女が欲しいと言ったから」出来た子です。男児がよかったらしい。ドンマイです。

 

いま、「自分らしさ」と「なにか(金銭面とか、食事面とか、人間関係に疲れてとか)」を天秤にかけて、後者を選んで血族と一緒にいる人たちって多いと思うんだな。あるいは、カミングアウトしたり説明を重ねたりして、「血族」を「理解者」にしたいと頑張る人たち。

そのことがいい/わるいの話ではなくて、「血族でも解りあえない時がある」「他人でも家族になれる」ということは留め置いていてもらいたい。

もちろん、解りあえるかはやってみないとわからないし、他人の家族が見つかるかもやってみないとわからない。どちらも労力は必要だけど、今の方法で「これでダメならもうだめだ」と思う必要は無い、まだ道はあるよという意味。

 

なんとでもなるよ。道は1つじゃないよ。

明確な理由はわからんが、生まれてきちまったんだもの。なるだけ快適に生きようぜ。