汽水空港モリさんのパワーワード「スピらずにスピる」で書けた文章

汽水空港モリさんが「スピらずにスピる」とか言っててウオー↑↑となったので私もスピの話する!ずっとずっとスピの話したかったけど、言うて「タブー視」のジャンルだろうからなぁ…と思ってた。モリさんに感謝。わたしもモジモジしないをやってみる。

 

 

「好きなことがお金になればなぁ」とか「嫌なことはしないで生きていきたいな」とか、ほとんど常に考えている。億万長者になりたいし、できるだけたくさんの人に好かれていたいし、何より自分自身を可愛がりたい。

 

そうこう思いながら生活していると、自ずと日常に溢れる「スピの欠片」を「引き寄せ」られるようになってきた。自己啓発本しかり、ヨガやアロマから入るタイプのやつしかり、ていねいな暮らしとか無添加云々しかり、東洋医学や漢方の世界(非/反西洋医学)しかり。

 

もちろん、これらの全部がぜんぶ「スピ100%!」ってわけではない。ただゆるりと、「世間」や「生産性」や「経済の輪」や「人工物の輪」から離れていくと、そういう、「自然」めいたものや「感覚」めいたものに近付いていくような感じ。

(私はこれに「開放」とか「インナーチャイルド」とか「そのままで愛される」とか、それ自体はスピワードじゃなくても、ゆるくスピにつながるワードがいくつ添加されているかでスピ度を量っている。そしてスピはゆるやかに、エセ医学とかエセスピへも繋がっていくからそこは注意したいと思っている。)

 

私自身は、なんでも信じるし信じてない。

クリスマスの数日後には神社に行き、彼岸は忘れるけどハロウィンはやる、嫌なことがあれば玄関に塩を撒きながらアロマを焚き、今日の運勢を読むような人だ。いずれもめんどくさいときはしない。なにより効くのは食って湯に浸かって寝ることだと信じている。

 

プラセボで元気になれるのならオッケー、思って救われるのならオッケー。

「今日も何もできなかった」ってなるくらいなら、ヒーリング音楽を聴いて大地と繋がりながらヨガをしたとか、何か出来たならそれでいいと思う。他者からどう思われても。

 

 

で、実は、私が講演活動をやっているときも、ゆるりとスピめいたことを言ってるんじゃないかと思うことがある。いや、「世間や普通にとらわれなくてもいい。自分らしくいていいんだよ」というのは、スピ活動家の教義そのものだなぁと思う。

 

それで思ったのは、スピの教義は、幸福追求や自助・共助の極振りじゃないかということ。

今の世の中は「生産」や「経済」にこだわっていて、「自分を好きでいられるか」とか「自分らしく生きていけるか」を蔑ろにしているんだと思う。人権や福祉の分野が切り捨てられて、働けない・生産できない人はカフカの階段を下りていくしか行き場がない。

 

行政が頼れない、自分の持ち物だけで極力お金を必要とせずに楽園を造りたいとするならば。

やっぱりスピに寄っていくしかないような気がする。

自給自足して、病院にかからない/かかれないなら薬草でも飲んで基本的な体力や治癒力を上げておきたい。マルシェ開いて物々交換して、それでも満たされないときは何かに祈りを捧げるし、邪念や未練や欲求を宇宙に還すとか言って、腹式呼吸でもやるんだろう。

社会みたいな「デッカイ思い通りにならない存在」をどうにかしたいなら、視界の全部を思い通りになる存在で埋めて対抗するしかないんじゃないか、それならなんとかなるんじゃないか。

 

人生の100%を、自分自身が信じられることだけで満たそうとすると、私はこうなっていくと思う。スピに生きることは究極の自立、そして孤独だ。と思う。

それはやだ、と、私は思う。私は。

やっぱり根本は、税金納めてんだからちったぁ行政でナントカシロと思うし、いつまで昭和やってんだと思うし、悟り開いた身内だけじゃなくてもっと多くの人が自他共に大事にできるほうがいい。

スピの教義が、幸福追求権が、求められている救いが、救われたい人たちが、もっともっと世の中に取り込まれてもいいんじゃないかと思う。

 

スピに極振りしても、今の世の中みたいに効率や生産に極振りしても、うまいこといかないんだよ。多分。

 

いつも何かの対岸をエッサホイサ飛び回り疲労しているのが私だ。