啓発ごとと妄想屋台活動、どっちもやれてる今が楽しいの話

先日、鳥大で講義をしてきた話を。

この講義は昨年もゲストスピーカーをさせてもらったのですが、いつもの「啓蒙」的な話をするのではなく、「田中或とは何たるか」みたいなことを話すような感じなので、たくさん考えるし自分のこれまでを振り返る機会にもなっています。

 

齢27、成長が止まりません。まぁ「成長」と言うのか「改良」と言うのか「進化」と言うのか…というか自分ではそう思うけど他者から見たら変わってないのか後退なのか、そのあたり細かい言葉選びはさておいて、当人としては振り返るたびに「今が一番ええ感じ」と思います。

人から見たらどんな風に見えるのかは、そらわからんが、そんなことよりも今が楽しくて、昔の自分は大変だったな~という感じで、多分近い将来の自分も、今の自分を振り返れば「あれはあれで大変だったな~」と評価すると思う。それでいいと思う。

 

今回の講義で一番言おうとした、去年の今頃との大きな改良点は、「ゆるしか」の活動を「啓発ごと」と「イベントごと・妄想屋台活動」との2本柱でやるぞ!というスタンスが固まったこと。

一方的に話をする形の「啓発ごと」が得意だ、言語化が得意だ、交流会は気が進まないし、啓発ごとを頑張りたい、と思ってやってきたけれど、ここにきて「現場」が楽しすぎる。きっかけは明らかに「成りたい人になるで式」だったな。

 

啓発ごとの時も、イベントごとの時も、妄想屋台活動をしている時も、私が言いたいことや示したいことはほぼ同じで、「だれでもなんでもええよ」というところ。十人十色やし、自分も他人も、何者でも何者でなくてもよいし、したいことを実践して機嫌よくやればいいのだ。

けれどまぁしかし、イスに座って黙って聞くしかない啓発ごとのシーンよりも、屋台を広げて人と出会う方が何倍も楽しいし、目の前の人が何かしらのリアクションをくれるのを見ていられるから、何倍も安心感がある。

 

講義室の重たい空気が苦手。講義が始まる前のざわめきが苦手。始業と同時に人形みたくなる聴講者が苦手。でもそうなってしまうのは彼らのせいではなくて、なんというか、そういうシステムが身についているんだよね。ほぼ自動でそうなってしまう。

そういうシステムをぶち壊すためにアレコレ考えた。多分、講師の私にエセな関西弁が出てしまうのも、やたらヘラヘラしてしまうのも、真面目に話ができないのも、「自動人形システム」をどうにか綻ばせたいがためなのかな。と思う。

 

ところがどっこい。「屋台」や「現場」というものは、そんなことをしなくても通用するのではないかという予感が香り始めている。啓蒙よりずっと興味をひきやすいし、言葉よりずっと「何かしら」が伝わるのではないかな、という可能性を感じて、わくわくする。

 

言葉をアレコレ考えるよりもまぁだいぶ抽象的にはなるが、伝わるものがあってもなくてもいい。ご機嫌に屋台を通して何かいい感じを共有できたら、それが素敵。

 

ゴキゲンに屋台なんか出しながら、一方でしっかりとした言葉も持っている。どっちも改良を続ける。そしたらもっと素敵な自分になっていきそうだな、という感じがしている。