愛すべき景色。【用瀬さんぽ市・野点・じんじんさん編】

私が喜々として語ることがある”用瀬さんぽ市””野点””ミラクル朝市”の景色について、なんとか文章にしてみようと思う。

一言でいうと「なんでもええやんの場」って感じなんだけど、それじゃあ説明にならないしな!笑

 

(でもひとまず自分語りからさせてほしい。)

私は”よく気が付く人”(後述するけど長所でも短所でもある)だ。今風に言うとHSPとかそんな感じもある。

私はなにかしらの運営サイドで参加すると、事前説明の段階でとにかくメモを取りたがり、1から100まで覚えたがり、当日も準備から片付けまでとにかく「仕事は無いか、仕事は無いか」と探し回り、いろんなものを体にひっつけ(輪ゴム、養生テープ、マッキー、紙、クリップ…)、手話から要約筆記から英語、ボディランゲージを思い起こし、110番、119番、心肺蘇生の手順を復習し、有事に備え、とにかく、あらゆる人・ことに対応しようとしてしまう。

 

勝手に、全自動でそうなっちゃうんだけど、正直すごく疲れる。

備えあれば患いなしなのはそうとしても、そっこまで考える必要はきっとないはず…ということもないけど、とにかく、脳内の”実際に必要なタブ”よりも”予備のタブ”がたくさん開いていて、動作が重くなる。これが私。

 

そんな私がいる前提で、先記のイベントたちの話。

 

私が初めて衝撃を受けた”用瀬さんぽ市”と”野点”。

こちらは、用瀬のまちなか全体をマルシェ化して、オモロイ地形のあちこちに、各店主それぞれが「ここがいい!」と思った場所にお店を設置。まちあるきイベントとマルシェと地域活性が同時に進むおもろいイベント。

数年前に出店した時は、人んちの土地に交渉もアリで、「草刈りしたら使っていいよ~」みたいな会話もあって、なんかよかった。(数年たったことと、ここ2年はコロナで規模縮小しているから次はちょっと変わってるかもだけど。)

 

そして、さんぽ市と並んで”野点”。

野点は、陶芸家のきむらとしろうじんじんさんという人がやっている催し。毎年秋・春あたりに全国各地を回って「お茶碗の絵付けしてもええし、できたお茶碗でお茶飲んでもええし、じんじんのお茶碗でお茶飲んでもええし、眺めててもいいし、写真だけ撮ってもええし、なんもしなくてもええし」みたいなのをやっている。

「なんでもええやん」「おもろいことやろう」みたいな空気の発祥はここから。

無駄なことや変わったことをしようとして「ええやん(≒OK)」がもらえるのは、子ども時代を含めてもここくらいだったんじゃないか?と思う。

 

もともとの私は割と行政的というか、理論理論順序でやってきた。

最初にやった屋台(たぶん2016?)は、意義とか、需要とか、競合他社の研究とか、話題性とか(?)色々考えた挙句に行き詰まり、結局「アクセサリーの屋台をひきながら歩く」やつだった。

 

そこから数年関わって、たくさんの”なんでもええやん成分”を浴びて、ラフにざっくりやった去年の屋台は「ブルーシートの上に家のラグとこたつを置く屋台」でした。あとはこたつの上に焼き菓子ちょっとと、「ご自由にお持ち帰りください箱」を置いとくやつ。折り紙とか小物入れとか、結構旅立ってくれました。

本当はミニテントとハンモックも置くはずだったけど、家に忘れてきました。あほ。

 

誰が来るんか知らんし需要もあるかもわからん、感染対策上もビミョーなイートインスペースだったけど、「いいんじゃない?」判定がもらえたのでやってやりました。ちな好評でした。

 

そして”じんじんさん”。

じんじんさんの話は特に、実際の姿だけを書くのが難しくて、主観と好きさも混同してるけどごめんやで。

 

じんじんさんは見かけ2mのドラァグクイーン、口調は優しくて、お茶目。語らせたら止まらない、でもめちゃくちゃ空気読める、読めすぎる人なんだと思う。

たまに言うジョークに周りがヒヤッとするんだけど、じんじんさんが笑ってるから、みんなもジョークだとわかって、一緒に笑う、みたいな。

それが気に食わなくて受け付けない人もいるんだと思うけど、それがじんじんさんに見えていたって、じんじんさんは多分「自分が自分であることをやめない」と思う。

 

それまで「できるだけ浮かないように」「なるべくたくさんの人に無害でありたい」と思っていた私にとっては、じんじんさんはビッカビカの原色。派手。やかましいくらい。

(そんなに色出ちゃってたら誰かに嫌われちゃうよ~~いいの?いいの??)と勝手にハラハラしてたけど、じんじんさんはヤンキーから遠巻きに盗撮されていても、子どもたちにからかわれてもしっとりと笑っていて、それがすごくかっこよくて綺麗。

 

そして、毎年毎年来ているうちに遠巻きのヤンキーがツーショットを撮りにきたり、子どもたちが「あ!じんじん!○年生になった!」みたいな話をしにきたりして、私も私で「じんじんさん聞いて―」って話したくなったりして、じんじんさんを好きになってる。

 

私はこれまで、気が付けば気が付くほど身動きしにくくなっちゃう感じがしていた。けど、気が付くのはそれとして、「どこまでを気付いたことにするか」とか、「どこまでが(自分らしさを崩さない程度に)必要な気付きか」みたいなことを考えるのが大事なのかなーとか、じんじんさんを見てて思った。

じんじんさんは、今はいろいろ考えてああいう色でいて、これからも変わっていったりする、変わらないところもある、もしかしたら限界が来ることもあるかも…とかって想像してしまう、人間臭ーい人。

その姿を見てしまえば、無味無臭で居たいなんて思うのはおもんないな、と、本当に思ったのでした。

 

つづきます!なんかめっちゃ長くなってごめんね!