田舎で一人でできることって限られてくるよなぁ

11月末で所属していた任意団体が解散すると、公式に発表された。
公式ラインを登録してくれていたであろう人たちは、団体が無くなっても平気なのだろうか。いや、団体がなくなったことが引き金になって精神状態が悪くなるくらいの、そのレベルの活動をしていたつもりはないから、さすがにそういうことはないんだと思うけど、やっぱり、「地元」あるいは「田舎」のコミュニティが無くなるというのは、その場所にいる当事者たちが「いない」ことにされるみたいで、寂しいよね。

で、なにかをはじめようと思う、という内容の記事をこないだ書いたんだけど、なんというか、そのグランドルールを考えるというか、自分の中でもうちょっと具体性を持たせるために、細かいことを考えていこうと思う。


私がやりたいことは、「当事者(この言い方も好きじゃないけど)が普通に生活していることを知ってもらうこと」と、「アライがいる空間を体感してもらうこと」。
具体的には、図書館や、スーパーや、映画館や、カフェや、いろんなところに「居てるよー」って発信して、「おお、こんな人なんや。普通やん」とか、「暗い影しょってんなぁ」とか自由に考えながら見てもらいたいし、勇気があれば話しかけるのもアリ。

あと、公共の場にいることで、そこで「フツーに」飛び交っている言葉たち(ホモとか、オネエ口調ゲームとか、彼氏いんの?みたいなこととか)を、一緒に聞くことが出来ることに大きな意味があると思う。
たぶん、そういう「フツーに飛び交ってる言葉たち」を、ある程度は気にせずに過ごすことが出来ている人もいると思う。一緒になって笑ったりね。あるいは、いちいちイラッときたり、いちいち悲しくなったりする人もいるかな。もちろん、気にならない人も。で、そんないろんな人達と、「一緒に聞いてるよ」という気持ちでいるということが、ちょっと意味があるのかなと思う。
と、いうのは、「オタクである私」が体験したことなんだけど、ファミレスでオタク話してる時、隣のテーブルの人がキャラグッズとか持ってると話しやすかったりするんだよね。「オタクに理解がある人だ!!」ってなって。そういうやつ。そういう場が、もっと自然にあればいいんだけど、なかなか無いから、作っちゃおうと思って。
あんまり度が過ぎるヘイト発言や、見聞きしていて気持ちが悪いようなことがあったら、注意しに行くことも出来るし。とにかく、「安心」って少しでも思えるような場にあれば、いいかなって。


…とまぁ、こんな程度のゆるーいことを、始めようと思う。


ツイキャスとかやろうかなと思ったけど、録音?とかされたり、意図しない使い方されたらいやだし、交流会みたいな名前をつけたらなんとなくハードルが高い気がするし…って、ねぇ。このくだりは前もしたね。

あ、もちろん、ツイッターのフォローとかDMは随時OK。DMに関しては、メンタルの調子が大丈夫な時のみの変身になるけど、返信をしないのは私の性格的にありえないと思うので、大丈夫。(注:よほど悪質な人には最初から返信しないよ)


私自身のメンタルが壊れないことを一番大事にしたいので、ぼちぼち出来ることからやるんだけど…。ウーン、次の記事にでも、いくつか過去の活動の中でつらかった話を振り返りながら、グランドルール(と言うか私がしんどくならないようにするためのルール)を作っていこうかな。

では。

ぼちぼち「なんか」はじめます

なにか始めたいけど。

居場所のない誰か(あるいは私)のために、居場所の少ない誰か(あるいは私)のために。
なにかをはじめたいと思うのだけれど、「なにか」がどんな形で、どんな色で、どんなものかが浮かばない。

「催し」?「イベント」?「会」?「サロン」?どれもなんとなく、違う気がする。
いや、違くはないんだけど、どれも私が出来ることだとは思えない。
なんというか、これらの全ては「この花を咲かせたいから、この肥料撒いてこの種撒いて、こういう管理をする。」みたいなことを考えないといけないような気がしていて、私がやりたいこととはなんとなく違うような気がする。

文字にすることは難しいんだけど、私がやりたいことは「花が咲けばいいなぁと思うから、芽が出る必要条件を整えたいなぁ」というくらいのこと。だから、「目的」があるわけではない…あってはいけない?(?)そういうことをしたい。そういう場があればいいのにと思う。


なんとなくぼやっとしてるんだけど、現段階で「こういうことかなぁ」と思うのは、ツイッターとかで「今日は○○図書館に居てます」って呟いといて、本読むなりしている。知らない人は知らないけど、気になった人は図書館に来て、「理解者がいる空間」を共有する、もちろん話しかけてもいいし、見るだけ見てっても良い。みたいな。

「催し」とか「イベント」とか「会」にしてしまうと、「運営」が必要になり、「参加者」になる必要が出てくる。これらは関わる人の「ハードル」になり得る。
だから、そういうのを出来るだけ取っ払おうとすると、色々なところがボヤけて、結果として「空間」としか表せない何かになる。今のところは。


でも、これって結構いいんじゃないかな。
「ALLYがいる空間」。私にとっては冷やかしが来る可能性や盗撮の危険もセットなわけだけど、そんなにビッグじゃないし、撮影禁止の場とか、すぐ相談が出来る場にしておけば解決だ。「交流会します!」とかって告知したのに人が来ない…なんて事態も回避できてとっても合理的。いい考えかもしれない。



ンン。なんかすごく良い事思いついちゃった感じがして、がぜんやる気になってきたわ。
「なんか」始めよう。ぼちぼち。

では。

セクシュアリティのことを考える回(定期)

どうも。結局名前決めてなかったんだっけ。でもお次の研修依頼は「あるさん」で受けちゃったから、もうあるさんということにしよ。あるです。

先日、たぶんパンクスのバンドさんがたくさん集まるバンドイベントに行ってきました。「たぶん」というのは、音楽ジャンルの定義ってよくわからんということと、名前を付けちゃうのは必ずしもいいこととは思ってないから。でもそういう言葉がないと、「なるほどああいう感じか」みたいなものが読み手には伝わらないから、使わざるを得なかった、という感じです。そういうことってあるよね。
で、今回はセクシュアリティの話をしようと思っているんだけど。

転職活動をしていて、現職の試験を受けたときのことを振り返る機会がよくあって。現職の受験資格には、「人権啓発に関わる経験があること」というのがあって、受験者は人権擁護委員とか、児童福祉員とか、企業の人権担当だったとか、そういう人が多いんだと思うけど、私は大学の時の「虹色らくだ」での経験を強みとして入社しまして。で、必然的にカミングアウトして働いていて、それでいいかなと思ってるのだけど、転職活動をするにあたり、カミングアウトは「するかしないか選べる」事柄になった。(業種が変わるからね)
それで、自分のセクシュアリティについて「他者に説明しなければ」というのが無くなった。と、同時に、自分を説明する言葉を探すことが多くなった。どうやら私は自分を紹介する時に、「私は性的マイノリティです」という旨の言葉以外、あんまり使う機会がなかったということらしい。

と、いうことで、今まで何度か考えたことがある「私は性的マイノリティなのか」ということについて、再度なんとなく考え始めている。別に採用担当に説明しなくたって転職できるんなら、もうこのアイデンティティを「トップに固定」する必要は無いんだなということに、ちょっとずつ気付き始めています。

性的マイノリティでも性的少数者でもセクマイでもLGBTでも言葉はなんでもいいんだけど、それに対して「自分が当事者である」という実感がハッキリとあったのは、まだ「多様性」の中身がLとGとBとTしかなかった頃のこと。その頃は自分のことを「B」の当事者だと言っていた。けど、「多様性」が多様であるということ(今でも新語が出続けていて追いつけないくらい)を知るたびに、私の中の「セクシュアリティ」における「シスヘテ」の占める面積が減っていって、もう「シスヘテではない自分」に対する焦りや違和感はほとんど無くなった。
し、他者のセクシュアリティのことも、反社会的だったり言ってることと矛盾したりしてない限りは「なんでもアリよね」と思えるようになった。(ロリコンとかNTRとか、「ビッチじゃないもん」とか言ってるのにビッチとかは無理)


「あるさんってセクマイなんですか?」と聞かれたら、うーん迷うけど、「マジョリティではないかな」って答えるかな、今なら。
結局のところ私のセクシュアリティは、「セクシュアルフルイド」「リレーションシップ・アナーキー」「ノンセクシュアル」あたりのことだと思うけど、それって「当事者です」って人にも伝わらないくらいの言葉かもしれないし、それならもう、ね。
セクシュアルマイノリティの定義より、セクシュアルマジョリティの定義の方が簡単だと思う(シスヘテのことだよね)だから、「私はマジョリティではない」という説明でいっか~と思うなどしています。

ちなみにリレーションシップ・アナーキーは、「信頼関係・無政府状態」とのことで、「友情と愛情の間に垣根を作らない」とかいう風に噛み砕かれたりしている考え方です。
政府(この場合は社会、世間と取ってもよさそう)の言う「恋愛関係」「友達関係」という区切りをつけない、そういう関係性を無くす…無政府!みたいな感じかな。

「友情の好きと恋愛の好きの違いってなんだろう」とか、「付き合うってなんだろう」とか「友達から恋人になると何が変わるんだろう」とか、「付き合ってなくても好き同士じゃなくてもセックスって出来るじゃんなんで?」みたいなことにずっと悩んでいた私にとっては、リレーションシップ・アナーキーという言葉に出会えたのが最高でしたね。
「信頼関係」がある人達にとって、その関係性を別の言葉で表す必要は無いし、仮に「友人」や「恋人」と説明したからといって、社会的、世間的な「友人はこうあるべき」「恋人はこうあるべき」という考え方は一切反映しない。これがすごく個人的には楽なことでした。


なんか、何の話だっけ。「セクシュアリティについて」なんて書き出しで始めるからこんなに話が飛び飛びになっちゃうのか。まぁいっか。おわろ。

詳しく知りたいとか、もっと掘り下げて書いて欲しい等あればコメントくださいね。

ではでは、また。

思春期の時に出会いたかった人、考え方、研修って何だったんだろう

中高生を対象にセクシュアリティに関する研修をしたことは、過去に2?3?回ほどしかないように思う。
(本当はそろそろ活動履歴をきちんとまとめなきゃいけないんだけどね。)
中高生、もとい思春期の年頃の人たちに、「自分」にせまることや、「自己」に関わる話をするのは難しいことだと思う。ましてやセクシュアリティに関する「自分」「自己」なんて何歳になったって揺れ動くものだと思うし、大人たちは「できるだけ『フツー』に」と願って(≒圧力をかけて)いる場合もあるのだから、なんともまぁ、悩ましいものです。

転職活動をしていて、ハローワークの担当者さんに「あなたが採用担当なら、どんな人が欲しいかを考えてみて。で、それに沿った自己PRを書くといいよ」ってテクニックを教わったのだけど、それを使ってみて、「私が思春期だとして、どんな研修を受けたいか」ということに、考えを巡らしてみようと思います。

私が思春期の頃(といっても個人差があって25歳くらいまで思春期の人もいるらしいけど)…たとえば中学生の頃は、明確に「セクシュアリティについて悩む」ということは無かったように思う。性指向の部分では、男性諸君はまだまだ恋愛なんてしている風じゃなかったし、私がいた集団は恋愛に興味がないような感じだった。性自認に関しては、「校則」について悩んでいたように思う。なぜ頭髪規定があるのか?なぜクソ寒い冬の制服がスカートなのか?ジャージ登校はなぜ許されないのか?なぜ通学鞄にキーホルダーを付けてはいけないのか?
そういう「なんで?」について、校内にある「なんでも聞かせてポスト」みたいなものに、本気で投書をしたことがある。「ひとりひとりが大切とか、十人十色とか言うのに、なんで自分を好きになる工夫は校則違反なんですか」って。(メンドクサイ生徒だな。)

社会人になった今思うことは、「大人になっても『校則』みたいなものはあるんだな」ということ。校則にあった「なんで?」「おかしくない?」っていう、あの感じがそのままの、よくわからないルールがたくさんある。しかも「世間では」「一般的には」みたいな概念に隠れていて、明確に規定されていなかったりもする。
すごく合理的じゃなかったり、効率的じゃなかったり、「いや、そんなの時代錯誤でしょ」っていう決まり事。そこから外れると、どこからともわからないけど確実にじわじわと、「何か」が下げられていくのがわかる。

…話はだいぶそれたけど、私が思春期の人たちに伝えたいことは、セクシュアリティに限らず全てのことに関して、「周りと違うけど大丈夫かなぁ」みたいな類の心配はしなくてもいいんだよってこと…かなぁ。
古着が好きなら「#古着好きと繋がりたい」、特撮アニメがすきなら「#特撮好きとつながりたい」、レズビアンなら「#レズビアンと繋がりたい」、勉強が嫌いなら「#勉強嫌いな人と繋がりたい」、そうやって「自分はこうである」ということを受け入れてくれる人達と繋がっていって欲しいな。「周り」に合わせるんじゃなくて、「自分」が合いにいく。居心地のいい場所へ。(ただし、「#いじめ好きな人と繋がりたい」みたいな、悪いことはよくない。)

そして、そうやって繋がりあっていることをみんなが「アリ」だと思える空気を持っていたいねって話も。あの子が好きなことや、あの子がやりたいことは、周りでは珍しいかもしれないけど、実際にはたくさん仲間がいて、全然変なことじゃない。
とにかく「周り」という単位はとても小さいもので、もっといろんなことがあって、もっといろんな人がいる。そうみんなが思ってたら、「○○って変なの!」って言われないし、もし言われても「変じゃないもん!△△には仲間がいっぱいいるもん」って返事が出来るし、心も楽になれると思うんだよね。


…というような、なんとなく、こんな話がしたいなぁ。
もうちょっと上手いこと言葉に出来るまで、というかほぼ「永遠のテーマ」みたいな話でした。おわり

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ブログはじめます。ことにします

所属していたセクマイサークルが解散するとのことと、転職活動のことで、もういっそ啓発活動の前線から退こうかしら…とか思っていたら、依頼が入ってきました。
以前依頼してくださった方が「激烈推薦」してくださったのだとか。有難い。

現状、私は職場と家とオタク界隈(趣味のね)にしかいないので、職場はさておき、オタク界隈の中には自分のセクシュアリティに関する困りごとや違和感はあまりなくなってきた。でもそのことを「生きやすい社会になってきた」と直結してしまって、「もう啓発はいっか。」なんて思い始めていた自分に、何とも言えない気持ちになった。

啓発というものはすぐに何かを変えることとは違う。細くても太くてもいいけど、とにかく長く続けることが最優先なんだ。長く続けるためには、とりあえずどんだけ細くなってもいいんじゃないか、とにかく在ろう。などと、カッコイイことを考え始めた私なのでした。

幸い(と言っていいかはわからんが)、「在る」ということには面倒な手続きも書類も必要ない。し、サークルという形式を取らないのであれば、私が私で在るということだけで成り立つ。性的マジョリティにはなれないという個性を積極的に持ち続ける限り、啓発してるということになるんじゃないかな。知らんけど。
なんか、まぁ、そんなことでいっか。そうしよ、と、今決めました。

色々考えてみよう。あとついでにブログも新しくしちゃおう。この記事第1号ね。

さてさて、どうなるか楽しみに。