思春期の時に出会いたかった人、考え方、研修って何だったんだろう

中高生を対象にセクシュアリティに関する研修をしたことは、過去に2?3?回ほどしかないように思う。
(本当はそろそろ活動履歴をきちんとまとめなきゃいけないんだけどね。)
中高生、もとい思春期の年頃の人たちに、「自分」にせまることや、「自己」に関わる話をするのは難しいことだと思う。ましてやセクシュアリティに関する「自分」「自己」なんて何歳になったって揺れ動くものだと思うし、大人たちは「できるだけ『フツー』に」と願って(≒圧力をかけて)いる場合もあるのだから、なんともまぁ、悩ましいものです。

転職活動をしていて、ハローワークの担当者さんに「あなたが採用担当なら、どんな人が欲しいかを考えてみて。で、それに沿った自己PRを書くといいよ」ってテクニックを教わったのだけど、それを使ってみて、「私が思春期だとして、どんな研修を受けたいか」ということに、考えを巡らしてみようと思います。

私が思春期の頃(といっても個人差があって25歳くらいまで思春期の人もいるらしいけど)…たとえば中学生の頃は、明確に「セクシュアリティについて悩む」ということは無かったように思う。性指向の部分では、男性諸君はまだまだ恋愛なんてしている風じゃなかったし、私がいた集団は恋愛に興味がないような感じだった。性自認に関しては、「校則」について悩んでいたように思う。なぜ頭髪規定があるのか?なぜクソ寒い冬の制服がスカートなのか?ジャージ登校はなぜ許されないのか?なぜ通学鞄にキーホルダーを付けてはいけないのか?
そういう「なんで?」について、校内にある「なんでも聞かせてポスト」みたいなものに、本気で投書をしたことがある。「ひとりひとりが大切とか、十人十色とか言うのに、なんで自分を好きになる工夫は校則違反なんですか」って。(メンドクサイ生徒だな。)

社会人になった今思うことは、「大人になっても『校則』みたいなものはあるんだな」ということ。校則にあった「なんで?」「おかしくない?」っていう、あの感じがそのままの、よくわからないルールがたくさんある。しかも「世間では」「一般的には」みたいな概念に隠れていて、明確に規定されていなかったりもする。
すごく合理的じゃなかったり、効率的じゃなかったり、「いや、そんなの時代錯誤でしょ」っていう決まり事。そこから外れると、どこからともわからないけど確実にじわじわと、「何か」が下げられていくのがわかる。

…話はだいぶそれたけど、私が思春期の人たちに伝えたいことは、セクシュアリティに限らず全てのことに関して、「周りと違うけど大丈夫かなぁ」みたいな類の心配はしなくてもいいんだよってこと…かなぁ。
古着が好きなら「#古着好きと繋がりたい」、特撮アニメがすきなら「#特撮好きとつながりたい」、レズビアンなら「#レズビアンと繋がりたい」、勉強が嫌いなら「#勉強嫌いな人と繋がりたい」、そうやって「自分はこうである」ということを受け入れてくれる人達と繋がっていって欲しいな。「周り」に合わせるんじゃなくて、「自分」が合いにいく。居心地のいい場所へ。(ただし、「#いじめ好きな人と繋がりたい」みたいな、悪いことはよくない。)

そして、そうやって繋がりあっていることをみんなが「アリ」だと思える空気を持っていたいねって話も。あの子が好きなことや、あの子がやりたいことは、周りでは珍しいかもしれないけど、実際にはたくさん仲間がいて、全然変なことじゃない。
とにかく「周り」という単位はとても小さいもので、もっといろんなことがあって、もっといろんな人がいる。そうみんなが思ってたら、「○○って変なの!」って言われないし、もし言われても「変じゃないもん!△△には仲間がいっぱいいるもん」って返事が出来るし、心も楽になれると思うんだよね。


…というような、なんとなく、こんな話がしたいなぁ。
もうちょっと上手いこと言葉に出来るまで、というかほぼ「永遠のテーマ」みたいな話でした。おわり

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