セクシュアリティのことを考える回(定期)

どうも。結局名前決めてなかったんだっけ。でもお次の研修依頼は「あるさん」で受けちゃったから、もうあるさんということにしよ。あるです。

先日、たぶんパンクスのバンドさんがたくさん集まるバンドイベントに行ってきました。「たぶん」というのは、音楽ジャンルの定義ってよくわからんということと、名前を付けちゃうのは必ずしもいいこととは思ってないから。でもそういう言葉がないと、「なるほどああいう感じか」みたいなものが読み手には伝わらないから、使わざるを得なかった、という感じです。そういうことってあるよね。
で、今回はセクシュアリティの話をしようと思っているんだけど。

転職活動をしていて、現職の試験を受けたときのことを振り返る機会がよくあって。現職の受験資格には、「人権啓発に関わる経験があること」というのがあって、受験者は人権擁護委員とか、児童福祉員とか、企業の人権担当だったとか、そういう人が多いんだと思うけど、私は大学の時の「虹色らくだ」での経験を強みとして入社しまして。で、必然的にカミングアウトして働いていて、それでいいかなと思ってるのだけど、転職活動をするにあたり、カミングアウトは「するかしないか選べる」事柄になった。(業種が変わるからね)
それで、自分のセクシュアリティについて「他者に説明しなければ」というのが無くなった。と、同時に、自分を説明する言葉を探すことが多くなった。どうやら私は自分を紹介する時に、「私は性的マイノリティです」という旨の言葉以外、あんまり使う機会がなかったということらしい。

と、いうことで、今まで何度か考えたことがある「私は性的マイノリティなのか」ということについて、再度なんとなく考え始めている。別に採用担当に説明しなくたって転職できるんなら、もうこのアイデンティティを「トップに固定」する必要は無いんだなということに、ちょっとずつ気付き始めています。

性的マイノリティでも性的少数者でもセクマイでもLGBTでも言葉はなんでもいいんだけど、それに対して「自分が当事者である」という実感がハッキリとあったのは、まだ「多様性」の中身がLとGとBとTしかなかった頃のこと。その頃は自分のことを「B」の当事者だと言っていた。けど、「多様性」が多様であるということ(今でも新語が出続けていて追いつけないくらい)を知るたびに、私の中の「セクシュアリティ」における「シスヘテ」の占める面積が減っていって、もう「シスヘテではない自分」に対する焦りや違和感はほとんど無くなった。
し、他者のセクシュアリティのことも、反社会的だったり言ってることと矛盾したりしてない限りは「なんでもアリよね」と思えるようになった。(ロリコンとかNTRとか、「ビッチじゃないもん」とか言ってるのにビッチとかは無理)


「あるさんってセクマイなんですか?」と聞かれたら、うーん迷うけど、「マジョリティではないかな」って答えるかな、今なら。
結局のところ私のセクシュアリティは、「セクシュアルフルイド」「リレーションシップ・アナーキー」「ノンセクシュアル」あたりのことだと思うけど、それって「当事者です」って人にも伝わらないくらいの言葉かもしれないし、それならもう、ね。
セクシュアルマイノリティの定義より、セクシュアルマジョリティの定義の方が簡単だと思う(シスヘテのことだよね)だから、「私はマジョリティではない」という説明でいっか~と思うなどしています。

ちなみにリレーションシップ・アナーキーは、「信頼関係・無政府状態」とのことで、「友情と愛情の間に垣根を作らない」とかいう風に噛み砕かれたりしている考え方です。
政府(この場合は社会、世間と取ってもよさそう)の言う「恋愛関係」「友達関係」という区切りをつけない、そういう関係性を無くす…無政府!みたいな感じかな。

「友情の好きと恋愛の好きの違いってなんだろう」とか、「付き合うってなんだろう」とか「友達から恋人になると何が変わるんだろう」とか、「付き合ってなくても好き同士じゃなくてもセックスって出来るじゃんなんで?」みたいなことにずっと悩んでいた私にとっては、リレーションシップ・アナーキーという言葉に出会えたのが最高でしたね。
「信頼関係」がある人達にとって、その関係性を別の言葉で表す必要は無いし、仮に「友人」や「恋人」と説明したからといって、社会的、世間的な「友人はこうあるべき」「恋人はこうあるべき」という考え方は一切反映しない。これがすごく個人的には楽なことでした。


なんか、何の話だっけ。「セクシュアリティについて」なんて書き出しで始めるからこんなに話が飛び飛びになっちゃうのか。まぁいっか。おわろ。

詳しく知りたいとか、もっと掘り下げて書いて欲しい等あればコメントくださいね。

ではでは、また。