職場①で保護者さんを見てて思うこと

急に土砂降り。困ったもんだ。だから体調悪かったのか―。しらんけど…。

今日も今日とてアレコレ考えていたことを書くわよ!今日は愚痴っぽ注意でもある。

 

私の職場①(と呼称することにする)、小さい子連れがよく来る観光施設なので今が絶賛繁忙期。毎日忙しいですね。

コロナや言うても子どもはマスクできない/しない&距離近い(ディスタンスとかしらん)で、ここ数日対応中に近距離で子どもの咳を浴びるという苦行が続いています。もともと無理だし、マスク生活に慣れたから余計に生理的に受け付けん…困り果てています。

 

でもまぁそんなことよりも!観光だからかわからないけど、ほんまに「スマホ撮影保護者」が多くて!そのことを書かせてくれ!本当にもう!

 

観光施設だから見るものも多くて、写真とか動画を撮りたいのはわかる。撮影可能だしどんどん撮れ。でも歩きスマホはダメだ。止まって道を塞ぐのも勘弁してほしい。柵を越えちゃダメだ。立ち入り禁止エリアに入るな。他のお客様やスタッフの映り込みにも配慮してほしい。マジで頼む。

そして何より、子どもの顔を見ていると楽しそうじゃないよ。もっとさぁ、動画とか写真よりも大事なもんってないのかね…。

 

幣職場①には「○○を作ろう!」「○○をやってみよう!」みたいな体験イベントがある。どれも「親子イベント」の名目でやっていてそう書いてあるのに、実情はだいたいが「体験エリアに子ども1人、離れたところから保護者が撮影(ヤバい時は父・母・祖父・祖母が各スマホで撮影)」だったりする。

イヤ、わからんよ、私は未婚だし子育ての経験もないからアレコレ好き勝手思うだけなのかもしれんけど、それにしたって「ソウジャナイ感」を禁じ得ない。

 

私の中では、子どもの隣で屈んで、同じ目線にいてあげて、「すごいね!」「上手だね!」「楽しいね!」って言ってあげる保護者がデフォだと思ってた。簡単な体験イベントとはいえ、注意事項がしっかりあって、守ってもらわないとケガをする可能性もある。「大人さんも付いて見てあげてくださいね」と声を掛けても、「ひとりで大丈夫なんで―」とスルーされ、離れたところから撮影撮影…。

 

自分(保護者)の声が入るのが嫌なのか、黙って撮ってる人も多いし、声掛けるにしても「やってやって!」「こっち向いて―」「笑ってー!」「帽子脱いで」とかそんなん。子どもはだんだん飽きちゃってザッと終わらせたり、「できたよ!!」の顔を私(スタッフ)に向けてくることもしばしば。

 

ここで私はいつも迷う。

スタッフとはいえ、他人の写真や動画に写り込みたくはないし、ネットに挙げられても困る。かといって、「できたよ!!」の顔を向けてくる子どもたちや、親が隣にいなくて不安げな子、飽きちゃった子、面白くなさそうな子たちには”大人として”やってあげたいことがたくさんある。実際にその子が望んでいるかはわからんが、隣で寄り添って目を合わせて笑ってあげたいのだ。

いやマジで、保護者がやってあげようよ。

 

もちろんみんながみんなこんな保護者ではないけれど、あまりにも多いなぁと思う。

ひどい人だと「(子が)映らないんで退いてもらえますか?」とか言ってきたり、見守り中やって言ってるのに柵の外から手を伸ばして私の顔の真ん前にスマホを持ってきて撮る親までいる。あなたが見守らない、スタッフの見守りも妨害、それで子どもがケガしても知らんからなマジで…。とは言えず。

 

とてもモヤる。なんかもう色々とモヤる。この問題を「最近の若い子は~~」で語られても困る。私はすごくすごくすごく違和感を持っているぞ。

 

もっとさぁ、なんとかなんないのかな…。

死生観

叔父が自死した時のことと、この出来事を思い出して考えたこと。

 

叔父は物置の片隅で自死を選んだ。選ばされた。

「自分で死んだ」「自分を殺した」と字では書くけど、自死遺族の会などが言い続けているように、いろんなものに追い詰められて、死ぬことを選ばざるを得ない状況だ。叔父もそうだった。

 

叔父とは特別仲が良いわけではなかったし、叔父の子ども(私からすると従兄弟)とも特別仲が良いわけではなかった。大人の事情は知らないが、おそらく周りの反対を押し切って結婚したのか、向こうの家と相性が悪かったのか。疎遠のような感じだった。

 

そんな叔父が離婚して実家に戻り、私の実家の隣・祖父母の家に戻ってきた。

ポテチとコーラの骨粗しょう症、透析が必要なほどの糖尿病、職を転々として、レモン市場で掴んだ車をしょっちゅう乗り換える。これに加えて、今思うとギャンブルにも行っていたんだろうな。

 

ま、申し訳ないがここまでだと「疎遠にされても仕方ねぇ」「嫌われても仕方ねぇ」と思う気持ちはある程度わかる。実際、甘ちゃんな祖母(叔父からすると母)が甘やかしていたくらいで、祖父や他の親族からは縁を切られたような感じだった。

 

が、私はどうかというと、大人の事情はわからかったし、お金を取られたわけではない(うちの両親はもしかしたらお金を貸したこともあったかも)、わからなくて結構だったので、別に叔父のことは好きでも嫌いでもなかった。ただ「糖尿臭いからなんとかしろ」「寝ながらメシを食うな」とかそういう注意はした覚えがある。

 

孤立した叔父。見る人からしたら自業自得だけれど、私はやっぱり、叔父が孤立しているのは納得がいかなかった。だって、甘いものもギャンブルも中毒性があるもので、本人が怠惰しているだけが原因ではないし、レモン市場から抜け出せないのは誰も教えてあげないからだ。どうかんがえたって”おとな”じゃないのに、「当たり前に大人だ」、「そのうえであんなにだらしない」とされていた。

なんとなーく違和感があったのに、(倍近く年の離れた小娘からフォローされても気まずいか)と、放置してしまったのが、今でも心残りだ。

 

そうこうしているうちに私は大学へ進学して、叔父の話も他者に聞かないと知れなくなった(しかも、聞くと家族は不機嫌になる)。

そして、その間に叔父はどんどん孤立して、怒られたり、精神論をぶつけられたり(おそらく家族からも、やっと就いた職場からも、病院の先生からも、世間からも。)して、精神を病んでしまった。助けてくれる人はおそらく1人もいなかった。

 

それでも、私が知っているだけでも2度、SOSはあった。誰がどう見ても聞いてもヤバい、どう考えても重大で明確なSOSだった。それでも、誰も助けなかった。そして、叔父は死んだ。

 

 

殺したのは私であり、叔父の家族であり、私の家族たちだ。自死に追いやったのは私たちだ。と、私以外の人間が思ったかはわからないが、私はもうあんな思いはしたくない。

「勝手にやれ」「知らない」「関係ない」「よそはよそ」と言うのは簡単だ。関わり続けるよりもよっぽど簡単だ。ゴミをゴミ箱に捨てるより簡単だ。そしてそれは逃げだ。簡単なひとつのアクションで、人は殺せる。

 

誰も助けてくれない環境下で、自分で出来ることを考えて、これ以上迷惑を掛けないように、自分の人生を終わらせた叔父。誰かが居てくれたら、絶対に違う道があった。歳が倍以上離れた姪っ子にだって、絶対にできることがあったのだと思う。悔しい。

 

 

今、私の周りには希死念慮を抱えている人(自分も含めて)や、孤立している人、孤立したがっている人(逃げるのはより簡単だからね)、どうにも逃げ出せない人がたくさんいて、全員が死に向かっている。

いや、全員もれなくいつかは死ぬんだし、自死したいなら止められない。だけど私は私が後悔しないために、出来るだけ関わり続けることをやめたくない。

縁を切られても結構、嫌われても結構だけど、私からは終わらせない。私は殺人には加担したくない。申し訳ないが、私の純粋な自己満足のために、これからも死にたがり各位との関わりは続けさせてもらう。

孤立したきゃして結構だけど、後々しんどくなったとて「自分で決めたことだから…」ってウジウジ孤立し続けるなよ。別にこっちは何とも思ってねぇわ。のスタンスを取り続ける。

「アクティビスト」を名乗ってた時が恥ずかしいわ

ここ最近考えていることなんだけど、講演とかLGBT関連の寄稿(と言うのかわからんけど新聞の企画とかで記事書くやつ)とかの活動は、もうぼちぼち畳み始めたがいいのかな~…について。

 

なんか、わかんない!「要望があればしまっせ」のスタンスは変わらないんだけど、”性的マイノリティの当事者として”、”LGBTの当事者として”と求められるような依頼に、ちょっと乗り気でなくなってきている。

 

講演のスタイルも、最初(2015~2017?18?くらいまで)は、「LGBTってこんな人で、病気とかじゃなくて、」とかって話し方をしていたけど、今は「十人十色やで、例えば性も色々で、SOGIESCってものがあって、」という風に、伝え方も内容も変わってきた。

それこそ”LGBTの”勉強がしたい人には、物足りないというか、そうじゃない感というか、ガッカリな感じになってしまうと思う。

でも、もう私としては、「”LGBT”の”権利を守る”ために”自分を曝け出して””強く””活動”している…、…、…!」みたいな人にはなれないんだわ。なんでかはわからんけど。

 

「そんなんじゃあかん!」「まっだまだ苦しんでる当事者がいるのに!」と、思わないこともないが、でも、それでもやっぱり、”LGBTの当事者であること”を求められるのは、居心地が悪くなってきた。

だって誰に受け入れてもらわなくたって、もう生きてるんだもんな。勝手に死んだら怒られるし、安死も非合法だし、生きるしかない。受け入れてくれる人とだけ関わったらいいし、嫌われた人のことをいっくら考えたって好かれはしないし、しゃあない。

マイノリティ性に縛られていたくない。そんなもん同定しなくたっていいし、他者に説明できる必要は無いし…。

 

…とかとか、ウジウジと考えてしまうわけです。

そうなると、講演の内容だってどんどんボケてくる。私の頭の中から”マイノリティ/マジョリティ”とか”普通/普通じゃない”が薄れてしまっているから、「なんでもええやん」やし「やればええやん」やし、それで完結してしまっている…。

 

イヤ、わかってるんよ。ある種のこの境地(?知らんけど)に達するまでには、時間がかかるしいっぱい考えたし、病むし死にそうになる。そうなったからこそ今私はこんな考え方が出来るわけなので(多分)、やっぱり、スピーカーとして私がいることにも、こんな話し方でも、価値はあるんやろうなと。

 

わからんけどな…。そこんところ、まだまだ考えつつ、依頼の受け方とかレジュメの更新とかしながら、だましだまし、やれるところまでやっていく方向で行こうかな…(結局やるんかい)

教祖がいなくてもなりたい人に成れな!

先日じんじんさんに会ったときに、「『聞いちゃあかんかな』とか何もないし聞いてやー」のコーナーがあったので、1つかねがね気になっていたことを聞いてみた。

 

じんじんさんって、なんかこう変わってるしすごいし、「崇拝!」「信者!」みたいな感じになりそうな感じ(カリスマ性とか言える語彙力欲しかった)もあるけど、「その辺のおっちゃん」感もあるし、それが同居してるのは不思議だな~と思って。「熱烈信者です!!」みたいな人とかいなさそうなのが不思議~!と思うんですけど、どうですか?(?)

 

じんじんさん曰く、「意識したことなかったけど、崇拝されないように避ける振舞いをしているかも」と、「野点という”作業”があるから、”作業をする人”という役割があるのは(信仰される/されないに影響が)大きいかもしれない」ということでした(ざっくりだけど)。なるほど。

確かに私もじんじんさん大好きではあるけど、じんじんさん個人にも、じんじんさんがいる屋台や風景やそこで流れる時間・空間そのものにも惚れているな。崇拝とかそんなんじゃないな。

 

そう考えたら、何か人を巻き込むことも特になく、講演して、ブログ書いて、たまに新聞やテレビで見るような私なんて、教祖の活動やないの…。「すごーい!」って言われても仕方ないなぁ。実際はそんなんじゃないのになぁ。

もっと何かしら、個人以外のところに惚れさせポイントを作らんとな。わからんけど。

…と、別にただの凡人風情が思うたのでした。

近況報告その他色々の書き置き

そんで最近の目まぐるしさよ…。どうなってん。

常日頃から何もなくても頭ガン回り勢なのに、ここ最近本当にそろそろ頭爆発しますが??ってくらい色々起こるね。ご自愛できる量にも限度があんぞ…。また薬復活したりして。ヤダァ。

 

選挙やテロのことは言わずもがな、派生して宗教2世のこと、アダルトチルドレンのこと、ノイジーマイノリティのこと、MeToo系もまた忙しくなってきたし、戦争は終わらないし、そういうデカい”社会”のことじゃなくても、日々考えること多すぎるんですわよ。困った!

 

そうこうしているので、「テレビ見れない期」も再来してるし、「目が滑って活字読めない期」「買い物行ったのに何も買えない期」も再来しています。ナントカシテクレー!!

 

考え続けることはやめちゃだめだし、生きることもやめてはいけない。

「人は人、自分は自分」ってのを、思考停止の言い訳には使わない。

 

 

…そんでそんで。急なアレだけど、10月くらいから連載が始まる予感です。ほぼ確です。字数が700~800です。ヤバいです。

たいてい1000字超えのブログしか書けないワイ氏のピンチ…ということで、これからちょっと「700字前後トレーニング」を開始します。という決意表明。

妄想屋台「ゆるしか図書館」の外注(案)

先日!大好き人じんじんさんと大好き町用瀬で会ってきました。11月の用瀬野点、さんぽ市のミーティングです。今年もやるよ!そして今年はまちなか開催復活だよ!嬉しいねぇ。

じんじんさん、学生数人と教授(ほぼ学生のきらめき)数人、用瀬宿活性化委員の大人さん数名(こちらも大好き人)、私、ひろさん。ちょっとだけ学芸員さん。

 

去年は野点スタッフをしながら無人屋台(こたつと「ご自由にお持ち帰りください」)をやっていい感じだったので、今年も野点スタッフと無人屋台で行こうと思う。考え中。

こたつはよかったな~。どうせ今年も足首出したようなボランティアスタッフが凍えると思うので(!)こたつは出したい。あとは機運が高まったもので。

 

 

それに関連して、今やってる「ゆるしか図書館」も、なんかグレードアップできんかなと思っていて、1つ素描を。ノってくれる人がいたら実現できるかも!

 

今やってる移動図書館は、今のところ

・自分ちの本棚から本を持ってくる

・ドリンクバー、お菓子バー

・フリータブレットボドゲ

・小物販売

このくらいなので、「誰でもできるぞ!」

今は「田中がやる、ゆるしか図書館」だけど、乗り気な人がいたら「ゆるしか図書館」という名前を一人歩きさせて、選書は他の誰かの本棚から頼んでもいいんじゃなかろうかと思いついた。よくない?

そしたら、「今日は○さんのゆるしか図書館」「今日は■さんのゆるしか図書館」で、よりたくさんの人に拓かれた感あるし、私のスケジュールの都合に左右されずに済むし。

ゆるしか図書館の外注。どうでしょう。

 

ドリンクバー等々は私が用意したものがあるし(もちろん自前で用意してもいい)、場所も既にやりとりがある浜村喫茶ミラクルと、用瀬イエロービルなら最初のコンタクトから取る必要は無いし、実はこれから松崎汽水空港もお借りしてやるつもりだし…場所が既にあるって大きい気がする。

出店費はゆるしか持ち。謝礼は申し訳ないがその時の何かで対応。

 

興味ある人がいたらお声掛けくださいね~。

社不レッテル貼られてもシャカイヨクスルタメニガンバル

梅雨明け爆速だったねぇ。梅雨は嫌いやけどこんなに雨降らんのも怖いわ。

しかも梅雨明けたところで日本の夏ってカラッとしないんだった。じわじわじめじめ、嫌やわぁ!

 

今日は講演。中学校。

講演前はだいたいスーパーダウナーだけど、今回は一層無理かもしれんので頓服キメました。頭のフル回転はひとまず落ち着くであろう。

 

最近またニュースが観れない期に入っている。んもうあらゆるニュースのひとつひとつに躓く。舞妓さんしかり、結婚式の加害性しかり、LGBTの自殺は本人のせいしかり、同性婚訴訟しかり。

孫放置してUSJ行って殺したとか、見知らぬ人をカッターで切り付けたとか、物騒すぎるし惨すぎる。被害に遭うのもガチャなら、私みたいな死にたがりがあたればいいのに、なんでそうはならないのか…。引きこもりだからか…

 

大人になったら、ひとつひとつのことにいちいち躓かなかくなると思っていたけど、甘かったな!

こないだ遊覧船に乗って、きれいな海や海岸線を観てきた。綺麗だった~。けどやっぱり躓いた。辺野古の珊瑚は生きてるかなとか、海洋プラスチックで死にゆく生き物たちとか、海難事故で行方不明になっている誰かのことを思うと、楽しんでいられない。

「楽しまなきゃ」と思わなきゃ楽しくいられないし、忘れてはいけないことを「忘れよう」と封殺しなきゃ生きていけない。

 

こういう苦しみ方は西加奈子さんの「i」を読んで、だいぶ癒されたんだけどなぁ。あぁつら!

 

暮らしに満足していないわけじゃない。私個人の人生的には、いまいい感じ。だけど、選挙も近いし講演もあるし、社会に目を向けると途端に瀕死や…。ウワーーー

 

ひとまずご相談なんですけど、精神障害で依存症で、家庭や社会を壊す性的少数者ワイ、今日日本の未来ある中学生に何を話したらいいんですか…?