近況報告その他色々の書き置き

そんで最近の目まぐるしさよ…。どうなってん。

常日頃から何もなくても頭ガン回り勢なのに、ここ最近本当にそろそろ頭爆発しますが??ってくらい色々起こるね。ご自愛できる量にも限度があんぞ…。また薬復活したりして。ヤダァ。

 

選挙やテロのことは言わずもがな、派生して宗教2世のこと、アダルトチルドレンのこと、ノイジーマイノリティのこと、MeToo系もまた忙しくなってきたし、戦争は終わらないし、そういうデカい”社会”のことじゃなくても、日々考えること多すぎるんですわよ。困った!

 

そうこうしているので、「テレビ見れない期」も再来してるし、「目が滑って活字読めない期」「買い物行ったのに何も買えない期」も再来しています。ナントカシテクレー!!

 

考え続けることはやめちゃだめだし、生きることもやめてはいけない。

「人は人、自分は自分」ってのを、思考停止の言い訳には使わない。

 

 

…そんでそんで。急なアレだけど、10月くらいから連載が始まる予感です。ほぼ確です。字数が700~800です。ヤバいです。

たいてい1000字超えのブログしか書けないワイ氏のピンチ…ということで、これからちょっと「700字前後トレーニング」を開始します。という決意表明。

妄想屋台「ゆるしか図書館」の外注(案)

先日!大好き人じんじんさんと大好き町用瀬で会ってきました。11月の用瀬野点、さんぽ市のミーティングです。今年もやるよ!そして今年はまちなか開催復活だよ!嬉しいねぇ。

じんじんさん、学生数人と教授(ほぼ学生のきらめき)数人、用瀬宿活性化委員の大人さん数名(こちらも大好き人)、私、ひろさん。ちょっとだけ学芸員さん。

 

去年は野点スタッフをしながら無人屋台(こたつと「ご自由にお持ち帰りください」)をやっていい感じだったので、今年も野点スタッフと無人屋台で行こうと思う。考え中。

こたつはよかったな~。どうせ今年も足首出したようなボランティアスタッフが凍えると思うので(!)こたつは出したい。あとは機運が高まったもので。

 

 

それに関連して、今やってる「ゆるしか図書館」も、なんかグレードアップできんかなと思っていて、1つ素描を。ノってくれる人がいたら実現できるかも!

 

今やってる移動図書館は、今のところ

・自分ちの本棚から本を持ってくる

・ドリンクバー、お菓子バー

・フリータブレットボドゲ

・小物販売

このくらいなので、「誰でもできるぞ!」

今は「田中がやる、ゆるしか図書館」だけど、乗り気な人がいたら「ゆるしか図書館」という名前を一人歩きさせて、選書は他の誰かの本棚から頼んでもいいんじゃなかろうかと思いついた。よくない?

そしたら、「今日は○さんのゆるしか図書館」「今日は■さんのゆるしか図書館」で、よりたくさんの人に拓かれた感あるし、私のスケジュールの都合に左右されずに済むし。

ゆるしか図書館の外注。どうでしょう。

 

ドリンクバー等々は私が用意したものがあるし(もちろん自前で用意してもいい)、場所も既にやりとりがある浜村喫茶ミラクルと、用瀬イエロービルなら最初のコンタクトから取る必要は無いし、実はこれから松崎汽水空港もお借りしてやるつもりだし…場所が既にあるって大きい気がする。

出店費はゆるしか持ち。謝礼は申し訳ないがその時の何かで対応。

 

興味ある人がいたらお声掛けくださいね~。

社不レッテル貼られてもシャカイヨクスルタメニガンバル

梅雨明け爆速だったねぇ。梅雨は嫌いやけどこんなに雨降らんのも怖いわ。

しかも梅雨明けたところで日本の夏ってカラッとしないんだった。じわじわじめじめ、嫌やわぁ!

 

今日は講演。中学校。

講演前はだいたいスーパーダウナーだけど、今回は一層無理かもしれんので頓服キメました。頭のフル回転はひとまず落ち着くであろう。

 

最近またニュースが観れない期に入っている。んもうあらゆるニュースのひとつひとつに躓く。舞妓さんしかり、結婚式の加害性しかり、LGBTの自殺は本人のせいしかり、同性婚訴訟しかり。

孫放置してUSJ行って殺したとか、見知らぬ人をカッターで切り付けたとか、物騒すぎるし惨すぎる。被害に遭うのもガチャなら、私みたいな死にたがりがあたればいいのに、なんでそうはならないのか…。引きこもりだからか…

 

大人になったら、ひとつひとつのことにいちいち躓かなかくなると思っていたけど、甘かったな!

こないだ遊覧船に乗って、きれいな海や海岸線を観てきた。綺麗だった~。けどやっぱり躓いた。辺野古の珊瑚は生きてるかなとか、海洋プラスチックで死にゆく生き物たちとか、海難事故で行方不明になっている誰かのことを思うと、楽しんでいられない。

「楽しまなきゃ」と思わなきゃ楽しくいられないし、忘れてはいけないことを「忘れよう」と封殺しなきゃ生きていけない。

 

こういう苦しみ方は西加奈子さんの「i」を読んで、だいぶ癒されたんだけどなぁ。あぁつら!

 

暮らしに満足していないわけじゃない。私個人の人生的には、いまいい感じ。だけど、選挙も近いし講演もあるし、社会に目を向けると途端に瀕死や…。ウワーーー

 

ひとまずご相談なんですけど、精神障害で依存症で、家庭や社会を壊す性的少数者ワイ、今日日本の未来ある中学生に何を話したらいいんですか…?

 

近況報告その他色々の書き置き

言葉は記憶の集合体だ、みたいな話をどっかで聞いたことがある。「あるコピーライター」という演題の玉山貴康さんの講演だったかしら。

 

”春”と聞けば心躍りあたたかく、まどろむ。

”冬”と聞けば身を縮め、こたつでラクトアイスを食べたくなる。

…ような感じがするのは、これまで私が生きていく中で培ってきた”春/冬のイメージ”であって、”春/冬の意味”ではない。

人それぞれに、辞書的な意味以外の言葉のイメージがある。

コピーを作るというのは、言葉を使って、いかにその人の持つ言葉のイメージを想起させるか…みたいなところがあって、面白いと思った。

きっと、コピーそのもので説明しすぎちゃダメで、かといって言葉足らずでもダメ。コピーライターが作り出したコピーと、見聞きした人の言葉のイメージとがビッタリ合って、辞書的な意味の外側に意味を成したときに、すごいコピーだと思うんだろうね。

すごいな、コピーライター。

 

ここんところ仕事でも活動でも文章を書く機会が多くて、ブログと違って文字数の制限もあるし読者も不特定多数いるしで、好き勝手書くことはできなくてアワアワしています。

ブログだとこんなにあれやこれや書けるのになぁ!難しー。

 

 

話は変わるけど、先日やっっっっッとライブハウスに行けました。現場最高、爆音最高、サブスクじゃ絶対聴けない演奏最高。MC最高。ライブ最高。

バンドマンの人間臭がやっぱり大好きだ。あんなにも自分の「好き」をしっかり表現しようとしていて、その悩みや葛藤や怒りを形にしていて、アツくて、素敵で。

垢抜けない私には到底なれそうもなくて、毎回あのパワーに圧倒されて泣いてしまうな。そして勇気付けられる。

冗談抜きに絶対また会いたいから、まだまだ死ねねぇなと思う。素晴らしいです。

 

ミーハーも相まってラブレット開けたいし音楽したいしタトゥーも入れたい。「したらええやん」って話。私まだなんにでもなれる。

 

 

講演内容の素描・考えたこと色々

大学のゼッタイおもろいヘンな授業にお呼ばれしました。ゼッタイおもろい、そしてヘン。社会学系の頭の中がひっくり返るヘンテコなものとの出会いの連続、疲れるけど好きです。

今さっきその授業の録画を観て、自分はどんな風に話そうかな~の素描をここで始める。

 

オファーをいただいたときのキーワードは「マジョリティの特権性」。これには本当に悩まされ続けているから、この機に胃を痛めに痛めて言葉にしようと思う。

 

私の肩書きややっていることは、はっきり言ってまとまりがない。移動図書館に講演に学童、普段の仕事は別にあって、最近行けてないけどカフェにも籍があって、今度から駄菓子屋をやりたいとか言っている。

私が「何者であるか」なんて、もっとまとまらない。言葉にできたもんじゃない。

「”カテゴライズ”をやめた」と言えば、私はしっくりくるけど、おそらく他の人にはピンと来ないのだと思う。

 

私が「カテゴライズをやめた」理由や道のりを説明したら、なにかしら伝わるだろうか。以下。

 

私が今こうなっちゃった大きな要因は、”LGBT”という言葉との出会い。

それまではなんとなく、「恋バナについて行けない」「同人誌の同性愛描写に安心感を抱く」「スカートが嫌」「ランドセルが嫌」というような、(まぁそんな人もいるんだわな、”十人十色”って言うもんね)と諦めていたようなことのひとつひとつが、”LGBT”という言葉に出会った瞬間、バッと合点がいった。

「フツウじゃない世界があり、自分はフツウではない側かもしれない」と自覚した時に、晴れやかなような、楽しみなような、寂しいような、ヤバいことに気付いてしまったような、とにかく混乱したのを覚えている。

 

「自分はフツウじゃない説」が浮上して、いろんなことを考えて、勉強して、仮説を立てて実験してみたり、嫌になって投げ出したり、フツウになろうと矯正を試みたり、それに失敗して嘆いたり、死にそうになったり、やけくそで講演を始めたらなんか出来ちゃってワーイとなったり、とにかく色々。早15年。

 

 

その「とにかく色々。早15年。」をもっと詳しく、大きそうな出来事を取り上げてみる。

 

1つは高3の時、自分が過去に性的虐待を受けていたことを急に思い出したこと。ホント突然。「これで性が歪んだのかも」と思い当たったけど、思い当たったところで今の自分が変わるわけもないし、過去のクソな事のせいで今の自分があるなんてキモすぎるので、考えるのをやめた。

ゲイ描写の漫画を安心して読めたのは、ヘテロセクシュアルが普通の社会において、女性性を持って生きる自分がターゲットにならない世界線だからなのかもしれないね。

そして、こういう体験があったから、性暴力被害者支援員になろうと養成講座に通っていたこともあった(フラバがひどすぎてやめた)。学童保育は「子どもは何が何でも愛されるべきだから」やっている天職だ。

 

2つめは、自分のマイノリティ性のせいで生きづらくて今も「死にたがり」だけど、マイノリティが1人死んだところでマジョリティは気付きもしないだろうなという絶望で、死ぬに死ねないこと。そしてそれが活動によって慰められると気付いたこと。

死ぬ気でやればなんでも出来る。明日死ぬかもしれんなら、自分の半生くらい語りまっせ。どうせ死ねないなら、より良い老後を作ろうかな、というくらいの動機で講演をやっています。

活動を始めたころは”承認欲求の塊”たる活動ぶりで、本気でやればやるほど、テキトーに聞き流されたときのダメージもデカく、すぐに折れました。

いま「なんで活動できるの?」って聞かれても、「さぁ?」としか言えない。あえて言葉にしたら「ワンチャンいい未来になるかもしれんから」「活動のストレスで寿命削りたいから」みたいな、死にたいか生きたいかわからない理由の同居になる。

 

そしてもう1つは、他のマイノリティが他人事に思えなくなったこと。

女性性の被虐待児、かつLGBTを自覚した時、テレビが観れなくなった。ジェンダー規範が怖い、女性性で生きていくことが怖いと思うようになった私には、性犯罪のニュースや誇張された恋愛ドラマ、ジェンダー観の根強いCMは凶器そのものだった。

そして、虐待のニュースなんかは特に、貧困、DV、依存症、障がい、社会制度の隙間も相まって、なんかもう全てに無力感を抱いた。そして他人事とは思えなくなった。

幸せな子ども時代を生きたかった、幸せな家庭に生きたかった、あるいは、マトモな大人に出会いたかった、助けてほしかった。このあたりが、学童や他のマイノリティ支援のアレコレに活きてくる。

あいサポーターしかり、認知症サポーターしかり、性暴力被害者支援員(挫折)しかり、音訳ボランティアしかり、人権教育推進員しかり、講演活動しかり、こども食堂スタッフしかり、居場所作り活動しかり。

 

マイノリティ性はいろいろあれど、結局の根本は多分一緒だ。言葉はヘンだけど、「”マイノリティ性を持つ人”は、別にマイノリティじゃない。」

マイノリティ性をマイノリティにするのは、社会とか身の回りなのだと痛感している。これが、「障がい者の人権問題」を勉強していた時に知った「障がいの社会モデル」という考え方を知ったときに、どっしりと、自分の根本になった。

 

そして最後に、こう色々ある人生を送ってきた私(書ききれてないけど機能不全家族育ちだし、いじめ→保健室登校経験者だし、非正規雇用だし…って皆も人生いろいろあるよね)だからかは知らんが、私は”正義マン”であり、最近話題の”HSP””繊細さん”でもある。

いろんなことに気付き、ダメージを受け、心を痛める。そして不和は解消したいし、サンドバッグになって解決するならなりたいし、寄付はしたいし、間違っていることには間違っていると言いたい。

部落問題や障がい者差別や性産業に従事する女性への搾取の問題や、いろいろなことに腹が立ったり悲しくなったりやりきれなくなったりする。そしてそのたびに、”当事者”じゃないから、動ける、動く。考え、発信する(出来る限りだけど)。腹は立つけど傷付きはしない、傷付いた人の分まで声をあげたい。これも大きな動力だと思う。

 

 

「頼むからさ、協力して頂戴よ。私たちが何をしても、少数派は少数なんだから、多数派が仲間になってくれないと多数決では負けちゃうのです。どうよ、マイノリティ達はみんな死にそうなわけ。動けるのが鳥取では私しかいないわけ。どうかどうか、協力してよ。”当事者”じゃないなら、死にたくはならないでしょ?まずは知るところから始めてよ。」と、講演の最後には頼むのです。

 

個人or小さき団体で講演活動をする人と出会いたい

講師仲間が猛烈に欲しい!誰かに聞きたいこと、聞いてほしいこと、励ましてほしいことが山盛りある。泣きついて、励まされて、もういっちょ頑張るかって思える場所が欲しい。

 

私の講演活動は、2015年に入部した「鳥取大学虹色らくだ」から始まり、卒業後は個人で活動、2019年に「ゆるしか」という屋号をつけて、やっぱり講演は個人で受けています。

「ゆるしか」の活動内容は、講演、移動図書館(月1~不定期)、妄想屋台出店(年2,3回~不定期)と、端的には言えない…色々になってきました。メンバーは私と、パートナーのひろさん。ひろさんは移動図書館や妄想屋台を一緒にやってくれています。講演のときは一緒に会場に来てくれたり、講演前後の私のメンタルケア(?)をしてくれています。(ごめんそしてありがとう)

 

講演依頼は多くはないけど、鳥取県全域から来ます。安定して講演を引き受けられるのは今のところたぶん私くらいのもんで、私は基本的に依頼は断らない。

 

が、実は断り方を知らんだけなのです…!アンポンタンなことに、相当無知そうな依頼メールすら断れない。啓発活動したさに、身を削って頑張っています。相当失礼な対応をされても、ナンジャソリャってなりながら受けてしまう。でも講演後のアンケートには、「きいてよかった」なんて書いてあるもんだから、やっぱりやめられない。大事な仕事だなぁと思います。これが続いて早7年目。

 

誰かに話したい、共有したいことがたくさん。

講演資料がこれでいいのか、謝礼の交渉とかしてもいいのか(自分に交渉できるくらいの価値があるのか)、依頼の断り方みたいなこと。

自由記載のアンケートに対する返事をどうしよう、アンケートに書かれたことが刺さって痛い、もう頑張りたくない、やめてしまおうか、みたいな悩み。

活動はいつまでやるのか、次世代育成とかできないものか、youtubeとか使っての発信もするべき?私たちはどこまで進もうか?みたいな話。

 

定例zoomミーティングでも、LINEグループでも、ツイッター上でもいい。

「今日も講演だ~胃が痛い~」「頑張れ~!」とか、

「この質問どう答えたらいいと思う?」「これはスルーで良いやろ、明らかに悪意あるじゃん」「やっぱそう?」とか、そんな会話がしたい…!

ひとりじゃもう頑張れないよ!ウワー――!

 

大きい団体に属そうにも、んなもん近くに無い!個人で細く長く頑張っていこう、いけたらいいな…と頑張るみなさま、ゆるく繋がりませんか…。

クライアントへの警戒モードが解けない問題

役所をたらい回しにされる

病院をたらい回しにされる

まぁ、ポジティブな感じはしないわね。

 

今度、民生委員の方に向けて講演をするにあたり、先方が聞きたいことのひとつに、「どこに相談すればいいですか?誰に繋げたらいいですか?」というのがある。

まぁこれも、民生委員当事者からの声なのか、研修をセッティングする役場職員の考えなのかはわからないけれど。

それで、私がどう話せば、どういう道を作れば、悩みを抱えた人たちが「たらい回され」ないかを考えている。ここで資料作りが止まっている。

 

 

私がいる大好き空間”喫茶ミラクル””用瀬イエロービル”界隈、それから5月1日の楽しかった”BOKUGOTO・マサさん”界隈では、行けば毎回知らん人がおるし、あれよあれよと知らん人を紹介してもらったり、その知らん人からオファーがかかったり、新しいことが次々起こる。

しかもさっき見知ったばっかりの人と、別に「お悩み相談会」と銘打ったわけでもない場において、経営者の悩みとか、個人の課題、メンタルや生活や信条の話なんかをするんだ。できちゃうんだ。

ああいう空間・現象と、”オヤクショ的たらい回され”とは、なにが違うんだろう。

 

…で、ひとつ浮かんだのは、「繋がりたい人⇔繋げる人」間の信頼があるかどうか、かつ「繋げる人⇔繋げられる人」間の信頼があるかどうか、だと思う。これが決定的に違う気がする。

架け橋が信頼なるか、ならないか。これに尽きる。

そんな大事な架け橋サイドは、「こいつとこいつを引き会わせても大丈夫だ」と、橋の両端にいる人を見極める力が必要になるはずだ。

(一丁前なことを言って、私は架け橋をn度失敗してきたので、最近は専ら橋の近くにつっ立っている。)

 

 

困っている人に対して、マニュアルを片手に「○○課に行けばわかると思います、わからないですけど、たぶん」なんて言ってたら、信頼もへったくれもない。「○○課の○○さんを訪ねてください」とか言ってくれたらまだ良い。

でもそんなことより、「私はそれ専門外なんで。」「それ全然知らないんで。私はコレ専門なんで。他あたってください。」的な空気を出すのを今すぐやめてほしい。マジで出てる人居ますから。そうなったら、もうその人に紹介されたなんびとも薄っすら信用ならん。

 

 

民生委員の話に戻る。

私は講演中に「この団体が話を聞いてくれますよ」とか、「この人が色々知っていますよ」とか、架け橋しちゃっていいんだろうか。いや、できないな。

先に書いたように、「自分は詳しくないんで、誰に繋げたらいいですか?」的なご要望だと、ご期待に沿ってやるわけにはいかないな。まず、知ってくれ。

 

たまに相談を受けていて思うのは、「知識がある人と話す」だけで安心してくれることも多い。外国で日本語が聞こえた時みたいなもんだと思う。

そこから、医療行為が必要なら専門の病院に行けばいいんだし、そういう団体にアポ取ればいいんだし、傾聴が大事なら継続的に話を聞けばいいし。

 

そうだよ、そもそも、「どんな団体があるか」って、調べたことはあるのかしら。

どの団体にも、お問い合わせフォームはあるわけだし、LINE相談とか、電話相談とか、窓口いっぱい書いてあるじゃないか。それを知ってて「どこがいいですか?」と言われているわけじゃないとしたら、やっぱり最初は「知ってください」「知ろうとしてください」だよね。

 

…と、ここまで講演内容に含めるとマズいんだよね、たぶん。笑

どこまでがよくて、何を言ったらマズいのかの境界が読めなさすぎるので勘だけど、これは講演中は黙ってて、個人のブログに書く程度でおさめるのが”大人”なんだよね。多分。

 

つっかれるわぁ。